【歴史教科書記述の比較資料】                                 2015年4月24日                                                                                       

(原始・古代)                                                                                            子どもと教科書大阪ネット21          

育鵬社教科書記述

その問題点

他社の教科書記述

「歴史の旅をはじめよう」

歴史の登場人物の中に、数多くの尊敬する人を見出すことができるでしょう。皆さんがこれからの人生で困難に直面し判断に迷ったとき、これらの人物の言葉や行動から、大きなヒントを得ることができればと思っています。…わたしたちが住んでいる日本という国は、古代に形づくられ、今日まで一貫して継続していることに気づくと思います。その理由は何なのかを考えてみてください。

日本中心史観ともいえる表現。歴史を学ぶにあたってこういう考えかたは特異。歴史上の委員物を道徳的に捕らえさせようとするのは社会科ではない。日本が連綿と続いてきたのは、天皇という存在があったからだとほのめかしている。

(日文)歴史上の人物やできごとが、なぜ現れ、起こったのか、それらが何と関連し、またどういう結果をもたらしたのかを、日本と世界の歴史のなかで読み解いていきましょう。過去の歴史が、今日の私たちの時代にどのようにつながっているのかを考えてみましょう。

 人々が豊かな自然と調和して暮らし、1万年以上続いた縄文時代は、その後の日本文化の基盤をつくりました。そして、縄文時代の人々と、その後、大陸からやってきた人々が交じり合い、しだいに共通の言葉や文化をもつ日本人が形づくられていきました。(縄文時代に6ページ)

縄文時代の豊かさのみを強調。生活環境の厳しさという側面を無視している。

「日本人」という民族が石器時代や縄文時代から継続されかたのような間違った歴史観を与える。

日文、東書、帝国、教出、学び舎は旧石器時代と縄文時代で2ページ。

【歴史ビュー 世界最大の墓・大仙古墳(仁徳天皇陵)】

…この時代に、これほどの大工事を完成させた大和朝廷の国力と技術には目を見はります。この大仙古墳は仁徳天皇陵ともよばれており、8世紀に編さんされた『古事記』『日本書紀』は、仁徳天皇が善政を行ったため民から慕われ、工事にあたっては老いも若きも力を合わせ、完成に向けて昼夜を問わず力をつくした、と伝えています。

仁徳天皇の古墳と証明されていないので、「仁徳天皇陵」の呼称は正しくない。

『古事記』『日本書紀』を引用することにより、仁徳天皇陵であるかのように印象づけている。

日文「大仙(仁徳陵)古墳」、東書・教出「大仙古墳」、帝国「大仙(大山)古墳」、

この大和を中心として勢力を大和朝廷(大和政権)とよび、その首長を大王といいます。…この大和朝廷の大王がのちの時代の天皇となっていきます。

「ヤマト政権」「ヤマト王権」と呼ぶのが通常。大王も天皇と結びつけられている。

日文「ヤマト王権」、東書「大和政権」

【帰化人の伝えたもの】

 

「帰化」は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従う」

という意味。「帰化人」の使用は、渡来人が「倭の大王の勢力に従った

人々」と印象づけたいためか。

他社は「渡来人」

[ズームイン] 日本人の宗教観

【わが国固有の宗教・神道の特色】

…神道はわが国固有の民族宗教です。…皇室の文化や祭祀の大きな特色でもあります。元日早朝、天皇は宮中から、伊勢の神宮、山稜(天皇の御陵)および四方の神々を拝礼します(四方拝)。また、1123日の新嘗祭では、天皇がその年に収穫された米と粟を神々におそなえします。この他、歴代天皇、後続の御霊をおまつりする春・秋の皇霊祭など、皇室と民間の祭祀には、深い信仰的なつながりがあります。

今日の神道の原点は、明治政府が神社を通じて天皇と国民を結びつけ

るためにつくった国家神道にある。

春秋の皇霊祭は、仏教の彼岸に由来しているものを、1878年に神道式に改めたもの。

他の教科書にはない。

【聖徳太子の登場】…のちの神道につながるわが国古来の信仰も尊ぶという姿勢は、その後のわが国の伝統に大きな影響をあたえました。

神道の信仰を強調しているが、あえて書く必然性はない。

 

他の教科書にはない。

【天皇と皇帝 聖徳太子の気概】(歴史ビュー)

『隋書』には、607年、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」…そこには、たとえ小国とはいえ、日本は独立国として中国と対等だという意味がこめられていました。 また、『日本書紀』には、608年、推古天皇が隋の皇帝に送った手紙に、「東の天皇、敬して、西の皇帝に白す」…とあり、「王」の称号にかわり、「天皇」の称号が使われたことが記されています。このようにわが国は、聖徳太子の時代にはすでに、中国の影響力からぬけ出そうとする政治的な動きを示していたのです。

* このとき、天皇の称号が初めて使われたとされる。一方、天武天皇(在位673686)の時代になってからだとする説もある。

当時の日本は、「中国の影響から抜け出そうとする」といえるような状況ではなく、国際社会から認められてもいなかった。

「天皇」の称号は、天武朝とする説が有力である。少数の説を子ども達におしつけようという姿勢は問題。

日文、東書、帝国など、天武期からとする説が有力と明記。

【大宝律令の制定】

令の規定により、天皇のもとには神々の祭りを受けもつ神祇官と、国の政治を担当する太政官が置かれました(二官)。

「神祇官」をことさらにとりあげている。

律令国家の本質ではない。

日文「二官八省」、東書は本文になし。

【人々の暮らし】

天候不順や疫病によって税を納めることができず、田を捨てて逃亡する農民もいました。

逃亡農民の原因を「天候不順や疫病」におき、税の負担にはおいていない。税負担の大きさ、「貧窮問答歌」、竪穴住居など民衆の生活を取り上げていない。

日文「租・庸・調という税や、兵役・労役がかけられ、重い負担となりました。このため、農地を捨てて逃亡したり…」

学び舎「のしかかる租庸調」として班田農民の苦しみを詳述。

【神話と歴史書】   

律令国家としての基礎ができあがるにつれ、わが国の歴史が書物としてまとめられるようになりました神々の物語や代々の天皇の業績を記した『古事記』や、国の正史として代々の天皇の業績を記した『日本書紀』がそれにあたります。

『古事記』・『日本書紀』が、そのまま史実であるかのような記述である。天皇家の支配を正当化した文書だという指摘はない。

東書「日本の国のおこりや、天皇が国を治めるいわれを確認しようとする動きが起こりました。」とこれらの書物が作られた背景を書いている。

日文「神話は、国土がどうしてつくられ、どのように統一されたのか、農産物や海産物はどうして生み出されたのかなどについて、人々に語りつがれていた物語です。」

[ズームイン] 神話に見るわが国誕生の物語   P.5051

【日本の神々の物語】 

カムヤマトイワレヒコノミコトは畝傍山のふもとの橿原で即位し、初代神武天皇となるという物語です。なお、2月11日の「建国記念の日」は、神武天皇が即位したとされる日を記念したものです

【伝説の英雄が活躍する神話】 

また、国を統一するのに大きな役割を果たしたのが、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)です。

構成が、戦前の国定教科書の冒頭部分、「第一 天照大神、第二 神武天皇、第三 日本武尊」と全く同じである。天皇の支配の始まりを日本の建国としている。

2月11日の「建国記念の日」が、あたかも史実であるかのように錯覚させるものである。

最後に、「歴史の事実そのものでは」ないとしているが、神話についての記述の突出した多さは意図的である。

学び舎「国の統一をすすめる目的でつくられたものですが、…太陽の女神とされる天照大神が、点から地上に神々をつかわし、その子孫が国を平定して、最初の天皇となったという神話は、そこに記録されたものです。」

【桓武天皇の政治】 

東北地方に住む蝦夷がおこした反乱には、坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、制圧しました。

朝廷による東北への侵略・抑圧が、蝦夷の反乱を引き起こしたことが読み取れない。

東書「朝廷は、東北地方に住み、朝廷の支配に従わない人々を蝦夷と呼び、しばしは貢物をおさめるように強制し、時には武力で従わせようとした。」

(学習のまとめ)

日本(世界)で一番を考えさせる。→

(中世)

【元の襲来】 

国難に対処しようとした九州各地から集まった多くの御家人たちがこれをむかえうちました。…ふたたび暴風雨によって壊滅的な損害を受け、退却しました(弘安の役)。こうしてわが国は独立をたもつことができました。

【側注】A わが国を救った暴風雨は「神風」とよばれた。

御家人の参加目的が恩賞目当てだったものもある。「祖国防衛戦争」として描く。戦前の教科書と類似。

「神風」には触れるが、ベトナム・高麗などの抵抗が、第3次の襲来を阻んだことについては触れない。アジアの視点は欠落。

暴風雨が実際に吹いたかどうかについても議論がある。

日文「元は、この後も日本侵攻を計画しましたが、中国・高麗・ベトナムなどの元に対する抵抗や、モンゴル帝国内の内乱のため延期され、フビライの死によって中止された。」(脚注)

帝国「暴風雨は日本を神が国を守るために起したものと考え、日本を「神国」とし、元軍の一員として戦いをまじえた高麗(朝鮮)よりも日本のことを高く考える思想が強まっていきました(神国思想)」。

20 建武の新政と南北朝の動乱   P.8384

【楠正成】(写真)

…戦いにすぐれ、後醍醐天皇のために戦い続けたことから、のちに「忠臣」とたたえられた。

【側注】A 天皇による政治が復興したことから、建武の中興ともよばれる。

楠正成は国定教科書で「忠臣」と賛美された人物である。

戦前は、「建武の中興」とよんだ。

 

楠正成は登場するが、くわしい説明はない。

「建武の中興」という記述は他の教科書にはない。

21 室町幕府と東アジア   P.8485【琉球と蝦夷地】

琉球やアイヌの歴史の記述がきわめて少ない。

帝国、教出は2ページを使い、琉球とアイヌを詳述。

 

23 産業の発達と広がる自治の動き  P.8889

土一揆の扱いがわずか4行であり、異常に少ない。

日文は、「村の自治と土一揆」「自治の広まり」で3つの一揆を詳述。

学び舎は「土一揆と戦乱」で正長の土一揆の状況だけでなく、当時の民衆の生活を詳述し、民衆の願いや活動がわかるものになっている。

(近世)

26 ヨーロッパ人の来航   P.106107

【宣教師が見た日本】

日本人の旺盛な知識欲でした。宣教師たちは、貧しくとも誇り高く理性的な日本人の国民性 に、布教の成功を予感したのではないでしょうか。

日本人の優秀性を協調する記述がいたるところに見られる。

 

他の教科書にはない。

29 江戸幕府の成立   P.116117

【幕府による統制】

幕府にとって征夷大将軍という役職は全国支配のよりどころであり、その任命者は朝廷でした。幕府は朝廷を敬いながらも…幕府をおびやかわないように注意を払いました。

征夷大将軍の任命者ということで、朝廷の存在を意識させている。

 

東書「幕府は、京都所司代を置いて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度という法律で天皇や公家の行動を制限し、政治上の力を持たせませんでした。」

31 「鎖国」への道   P.118119

【島原・天草一揆と鎖国】

鎖国はわが国の独立を守り、平和を維持するための政策でした。

鎖国の目的は、幕府による貿易統制とキリスト教禁教政策であった。

 

 

東書「幕府による禁教、貿易統制、外交独占の体制を鎖国と呼んでいます。」

帝国「幕府が貿易を統制し、日本人の出入国を禁止した政策」としている。また、「琉球とアイヌのくらし」という特設ページをもうけ、生活や文化について紹介している。

 

38 田沼の政治と寛政の改革   P.134135

【側注】このとき(天明の飢饉)、幕府をたよりにできないと思った京都の人々の中には、朝廷の光格天皇をたよりにする動きがあった。

天皇の存在を意識させる記述である。

必然性の無い記述。

他の教科書にはない。

41 新しい学問と思想の動き   P.130131

【新しい学問・国学と蘭学】

皇室の系統が絶えることなく続いていること(万世一系)は、日本が他国よりすぐれている点だと考えられ、…。

「万世一系」がすぐれていると意識させる記述である。

「万世一系」という語句は、この頃にはまだない。慶応年間に岩倉具視が使ったといわれている。

 

他の教科書には「万世一系」という語句はない。

(近代)

46 尊王攘夷運動の高まり   P.162163

貿易の開始による経済の混乱の記述はない。

日文「経済の混乱」、東書「開国の影響」として詳述。

48 五箇条の御誓文と明治維新   P.166167

【維新の内戦】 

この戦いに当たり、イギリス軍は官軍に、フランスは旧幕府軍に武器や資金の援助を申し出ました。しかし、両軍ともそれを断ったことが、外国の介入を防ぎ日本の独立を守ることにつながりました。

【側注】@ 戊辰戦争以来の官軍の戦没者をまつるため、東京の招魂社が創建され、のちに靖国神社と改称された。

イギリス政府が、討幕軍に武器や資金の援助を申し出た事実はない。

靖国神社の存在を意識させている。今後の「戦争する国」の準備のためか。

 

他の教科書にはない。

50 学制・兵制・税制の改革   P.170171

【東京開成学校の開校】(側注 写真)開校式には明治天皇も出席した。

明治天皇の出席を記述する必然性はない。明治天皇の存在を強調。

 

他社は「旧開智学校」を写真で紹介。

【地租改正】

江戸時代に比べて税の負担が増えた地方もあったため、各地で地租改正反対の一揆がおこりました。

江戸時代の年貢収入を減らさない形で地価が定められ、農民の負担が

軽減されなかったことが記述されていない。

日文「地租の総額は、江戸時代の年貢収入を下回らないように設定されていたため、農民の税負担は軽くならず、地租改正反対一揆が相次ぎました。」

51 明治初期の外交と国境の画定  P.172173

【北方の国境と守り】【清と沖縄】

【歴史ビュー】わが国固有の領土である国境の島々

…ロシアに不法占拠…。…韓国によって不法占拠…。中国や台湾当局が近年になっ

て領有を主張…。

蝦夷地から北海道への改称については触れていない。

「琉球処分」が武力を背景に行われたことの記述はない。

領土問題の対立を煽る記述。

日文「軍隊を派遣して廃藩置県を行い、沖縄県を設置しました。」

「先住民族のアイヌの人々は、仕事や土地を失ったり、移住を強制されたりして、生活に困るようになりました。」

教出は特設ページでアイヌの文化を記述しているが、本文には蝦夷地は北海道になったことを記述していない。

52 国会開設へ向けて・自由民権運動   P.182183

【自由民権運動のおこり】

五箇条の御誓文は「広く会議」をおこし、何事も公の場で議論して決めようという「万機公論」の原則を宣言していました。そのため政府も、憲法のもとで議会を開く立憲政治がのぞましいと考えていましたが、なかなか実行には移せませんでした。

天皇のもとで立憲政治を行うべきだという点では、政府と民権派の意見は一致していましたが、実現までの期間については、両者に大きなへだたりがありました

【歴史ビュー 民間でもつくられた憲法草案(五日市憲法)】

その第一条には、「日本国ノ帝位ハ神武帝ノ正統タル今上帝(当時の明治天皇)ノ子裔(子孫)ニ世伝ス」と皇位の継承が明記されました。

【内閣制度の創設】

自由党員の中には党の統制に反して実力行使に出る人々もあらわれ、政府はきびしく取り締まりました。政府がすでに国会開設を約束したこともあり、自由民権運動はおとろえていきました。

五箇条の誓文の説明は、妥当でない。

藩閥政治をめぐる政府と民権派の厳しい対立についての説明がない。

両者の違いを国会開設の時期の違いだけとしている。

「自由民権運動のおこり」と書いてあるが、実際には自由民権運動が求めたものはどういうものだったかは記述されていない。

 

 

五日市憲法の内容について「皇位の継承」を取り上げているが、重要なのは国民の権利保護にあった。

 

政府の弾圧の原因を自由民権運動の実力行使としている。

言論弾圧の実態や、民権運動の衰退の理由が政府による弾圧にあったことの記述がない。

日文「憲法制定・国会開設・条約改正・地方自治の実現を通して近代的な立憲制国家を樹立することをめざした自由民権運動」

日文「五日市憲法草案」

「45条 日本国民は、各自の権利や自由を達成することができ、他からこれをさまたげてはならない。国の法律はこれを保護しなくてはならない。」

帝国「五日市憲法草案」

47条 すべての日本国民は、族籍位階(身分や位の別を問わず、法律の前においては平等である。」

日文「自由民権運動も、政府の弾圧や、1880年台に起こった深刻な不況を背景に、東日本各地で民権派が関係した激化事件が起こり、停滞していきました。」

学び舎、「秩父事件」について、「自由と自治を実現しようと立ち上がった」と記述。

53 大日本帝国憲法の制定と帝国議会  P.184185

【大日本帝国憲法の発布】  

…議会の力を、より強めたものでした。国民は法律の範囲内で、言論や集会、信仰などさまざまな自由が保障されるとともに、納税、徴兵などの義務を負いました。…この憲法は、アジアで初めての本格的な近代憲法として内外ともに高く評価されました

【側注】A 天皇は、実際には政治的権限を行使することはなく国家統治の精神的よりどころだった。

【憲法発布を祝う人々】(写真)

憲法の成立を祝い、各地で祝賀行事が行われ、自由民権派も新聞も憲法発布を歓迎した。

【帝国議会の開設】

教育勅語は、親への孝行や友人どうしの信義、法を重んじることの大切さなどを説きました。また、国民の務めとして、それぞれの立場で国や社会のためにつくすべきことなどを示し、その後の国民道徳の基盤となりました。

【教育勅語】(側注)

もし、国や社会に危急のことがおきたならば、正義と勇気をもって公のために、働き、永久に続く祖国を助けなさい」(一部要約)

自由が「制限された」というより「保障された」かのような印象を与える。

国民が天皇の「臣民」だったことの説明はない。

「アジアで初めての本格的な近代憲法」と手放しで賛美している。

天皇に主権があり、統帥権、勅令制定権、宣戦・講和の権限など絶対的な権限があったことの説明はない。「政治的権限を行使することなく」、「精神的よりどころ」ということで「象徴天皇」であるかのような記述である

中江兆民が批判的であったことや、国民が内容を知らずにお祭り騒ぎを演じていたことについての「ベルツの日記」などについては触れていない。

天皇への「忠」を意図的に隠している。「国民道徳の基盤」として美化している。

「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の意味を、「天地極まりのない皇室の

運命を助けなさい」から「永久に続く祖国を助けなさい」と言い換え

ている。教育勅語が天皇制を支えていたという本質をかくしている。

 

東書「主権は天皇にあり、天皇は政治責任を問われない存在で、国家の統治権を一手ににぎる国家元首であると規定されました。陸海軍の最高指揮権(統帥権)や、議会の召集・解散、条約の締結、開戦や講和についても天皇の権限とされ、強大な権力が天皇に認められました。」

学び舎「こっけいなことに、だれも憲法の内容をご存じないのだ」とベルツの言葉を紹介し、大日本帝国の内容を国民のほとんどが知らなかったと記述。

 

 

 

日文「天皇に対して忠義をつくし、国を愛する忠君愛国や、父母への孝行などを国民道徳の基本にすえ、教育のよりどころとするという政府の方針が示されました。」

学び舎は、教育勅語の儀式で深くお辞儀をしなかった内村鑑三が教師を辞めさせられた事例やご真影を守るために命をかけた教師の実例を示している。

55 朝鮮半島と日清戦争   P.188189

【朝鮮をめぐる対立】 

わが国が日朝修好条規で朝鮮を独立国とみなす、一方、清は朝鮮をみずからの属国とみなしていました…わが国でも、隣接する朝鮮がロシアなど欧米列強の勢力下に置かれれば、自国の安全がおびやかされるという危機感が強まりました。

日本は朝鮮を「独立国」とみなしたわけではなく、清にかわる支配権

をうち立てようとしていた。甲申事変に日本はかかわっていた。

日清戦争は自衛のための戦争であったかのような記述である。

東書「甲申政変以後、日本の勢力が後退する一方、清の勢力が強くなると、日本は清に対抗するため、軍備の増強を図っていきました。日本国内では、フランスのインドシナ占領やロシアのシベリア鉄道建設など、列強のアジア進出に対抗して、朝鮮に進出しなければ、日本の発展も望めないという主張が強まりました。」

56 ロシアとの激突・日露戦争   P.190191

【三国干渉と日英同盟】

わが国は「臥薪嘗胆」を合言葉に、国民が一体となってロシアに対抗できる国力と軍事力を備えようとしました。

【日露戦争の開戦と日本の勝利】

ロシアの東アジアでの軍備増強をこのまま認めれば、わが国の存立の危機をむかえると考えた政府は戦争を決意し、…海上では、…世界の海戦史に例を見ない戦果を収めました(日本海海戦)

【日本海海戦】(写真)

東郷平八郎の右にこの作戦を考えた秋山真之が見える。

【乃木希典】(写真)

敵の名誉も尊重する人格者。裕仁親王(昭和天皇)の教育に当たった。

内村鑑三や幸徳秋水の非戦論・反戦論などには触れず、与謝野晶子もここではとりあげない。

日露戦争を自衛戦争として描いている。

韓国を手に入れたいという日本の考えが戦争の原因。

日本海海戦の勝利を取り上げる一方、多くの犠牲の末の勝利と美化。

 

 

 

 

秋山真之は紹介する必然性のない人物。

乃木希典を人格者として美化している。乃木の作戦での犠牲についは語らない。

日文「国民のあいだには、ロシアに対する不満が高まりました。」

他社の多くが、与謝野晶子、幸徳秋水、内村鑑三を紹介。

東書「ロシアの勢力拡大を見て、韓国での優位を確保したい日本」

日文「韓国へ勢力をのばそうとしていた日本は、ロシアとの対立を深めました。」

 

 

59 国際的地位の向上と韓国併合   P.192193

【日本への期待と警戒】

…同じ有色民族が、世界最大の陸軍国・ロシアを打ち破ったという事実は、列強の圧迫や、植民地支配の苦しみにあえいでいたアジア・アフリカの民族に、独立への希望をあたえました。インド独立の父ネルーや、中国革命の指導者孫文は、日本の勝利がアジア諸国にあたえた感動を語っています。

【韓国併合】

…日本は、その武力を背景に、韓国と日韓議定書を結びました。これは韓国の領土を他国(ロシア)から守るため、日本軍が韓国内に展開することを認めるという内容のものでした。また、日露戦争中には、アメリカのフィリピン領有と、日本の韓国保護国化をたがいに支持する内容の合意が日米間で行われました。さらに、更新された日英同盟や、ポーツマス条約でも、韓国に対する日本の保護権が認められました。…欧米列強にも、朝鮮半島の問題で日本に干渉する意図はありませんでした。わが国の朝鮮統治では、併合の一環として近代化が進められましたが、…

【韓国併合後の朝鮮の変化】(表)   

【中華民国の成立】

日清戦争の下関条約で日本の領土となった台湾でも、一部で住民の抵抗はありましたが、日本政府は台湾総督府を置いて開発を進めました

ネルーは初め感動したが、のちに日本の韓国支配に失望した。そのことは取り上げない。

韓国支配を、ロシアから守るためと正当化している。

日本の韓国支配を欧米列強が認めていたものだとして韓国併合を正当化している。

韓国併合で近代化が進んだと、植民地支配を美化している。

石川啄木の歌「朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」は載せられていない。

人口・戸数・耕地面積・米生産量・麦生産量・造林植樹数・普通学校数・普通学校生徒数が、増加している表を載せ、韓国併合が韓国を発展させたと美化している。

 

 

 

 

 

住民の抵抗を武力で抑えたことを記述していない。「開発を進めた」と美化している。

東書「日本は列強としての国際的な地位を固めました。国民の中には、列強の一員になったという意識がうまれ、アジアの諸国に対する優越感が強まってきました。一方、欧米列強の圧迫に苦しんでいたインドなどアジアの諸国では日本にならった近代化や民族独立の動きが高まり、中国では革命運動が急速に活発化しました。」

日文、東書、孫文が日本をどう見ていたかを紹介。

啄木の歌を載せている教科書が多い。寺内正毅の歌は帝国・東書・教出。

日文「日本に同化させる政策を進めました。また総督府が実施した土地調査事業で…所有権が明確でないとして土地を失う農民も現れました。」…日本や満州へ移住せざるを得なくなる人々の背景を記述。

学び舎「土地を買い占める東洋拓殖会社」として、朝鮮の農民の抵抗を抑え込み、土地を取り上げて言った様子を詳述。

 

東書「台湾住民の抵抗を武力でおさえ、軍人を総督とする台湾総督府をおき、植民地として支配しました。」

【人物クローズアップ】 

政治の基礎を築いた伊藤博文

その胸の中には常に国への思いが波うっていました

「常に国への思い」で締めくくられている。主観的表現

歴史上の人物をたたえたり、心の内をあげるような主観的表現は他社にはほとんどなし。

(二つの大戦)

【表紙】 装備を取り付けている戦艦大和   P.205

戦艦大和は、当時の日本の技術を結集してつくった世界最大の戦艦だったんだ。

戦艦大和の建造を美化であり、二度の大戦の表紙として適切なのか。

東書は戦前の人びとの暮らしの写真。日文はゲルニカ。

62 第一次世界大戦   P.210211

【日本の参戦と二十一か条の要求】

わが国は、日英同盟に基づき三国協商側に立って参戦し、ドイツの租借地だった山東半島や青島や太平洋上のドイツ領の島々などを占領しました。さらに協商側の要請で地中海に小艦隊を派遣し、商船などの警護にあたりました

【地中海の日本海軍艦隊】

ドイツ海軍の潜水艦攻撃から、三国協商の輸送船や商船を守るために活躍した

日本の参戦の目的(山東半島および南洋諸島の獲得)を記述せず、協商側の要請としている。

日本は、「協商側の輸送船や商船を守るため活躍」と美化している。

 

帝国「日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し、連合国側として参戦しました。ヨーロッパ諸国がヨーロッパで戦っている間に、中国に手を伸ばそうとしたのです。」

63 ロシア革命と第一次世界大戦   P.212213

【ソビエトの出現】

…退位したロシア皇帝やその家族は処刑され、資本家や地主、知識階級は捕えられ多数の人々が殺害されたり、シベリアに追放されました

【共産主義の拡大】

議会政治を否定し、共産党にすべての権力が集中する一党独裁政治が行われ、市民の自由はうばわれました。…わが国も1918(大正7)年、アメリカなどとともにシベリア出兵を行い、共産系軍とたたかいましたが、成果がないまま撤退しました。…スターリンは秘密警察による情報網をはりめぐらせ、共産党に反対する人々を摘発して収容所に送り、おびただしい数の犠牲者を出しましたわが国は、北の国境で共産主義という新たな脅威と直面することになりました。

ロシア革命の否定的側面を強調し、世界の歴史に果たした意義を客観的に評価しない。

日本のシベリア出兵も「共産系軍」との戦いとして正当化。シベリア侵略の本質には触れず。

「共産主義という新たな脅威」ということで、その後のアジア侵略が正当化されていく。

東書「「パン・平和・自由」を求めて労働者のストライキや兵士の反乱が続き、彼らの代表会議(ソビエト)が各地に設けられました。…ロシア革命は、資本主義に不満を持ち、戦争に反対する世界の人々に支持され、各国で社会主義の運動が高まりました。こうした影響がおよぶことをおそれた列強は干渉戦争を起こし、日本、アメリカ、イギリス、フランスなどは、シベリア出兵を行いました。…スターリンが共産党の独裁体制をしき、…ソ連は成長をとげることになりますが、…多くの犠牲者を出しました。」革命の理想と達成したもの、スターリン支配での問題点をバランスよく描く。

【アジアの民族運動】

…(三・一独立運動)。朝鮮総督府は、軍隊を出動させて鎮圧しましたが、以後、武力中心の統治から、よりおだやかな統治へと変わっていきました

三・一の後、「おだやかな統治」に変わったかのように記述し植民地支配の本質をかくす。

日文「この運動で政策転換をせまられた日本は、言論や集会の自由を限られた範囲で認めるなど、統治のしかたを一部改めました。」(脚注)

学び舎は「独立マンセー」という章で、柳寛順を取り上げ、3.1独立運動を詳述するとともに、民族自決を求める国々の動きを取り上げ、帝国主義に抵抗する人びとを紹介している。

65 大正デモクラシーと政党政治   P.216217

【社会運動の高まり】

小作争議、新婦人教会、北海道アイヌ協会、などの記述がない。

社会主義に関しては弾圧の視点からの記述。

    

日文「1922年には、日本共産党がひそかに結成され、私有財産制廃止や天皇中心の国のあり方の変革を主張するようになりました。…平塚らいてうが市川房江らと新婦人協会を設立し、政治活動の自由などを要求しました。…台湾では、台湾人による自治をめざして、台湾議会の設置を求める運動が行われました。」

学び舎、山本宣治を特設ページで紹介。

66 ワシントン会議と日米関係   P.218219

【関東大震災】 

…交通や通信がとだえた混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が、住民たちのつくる自警団などに殺害されるという事件もおきました。

軍隊・警察に殺害された甘粕事件・亀戸事件も自警団のせいにされてしまう記述である。

 

関東大震災の記述が全体的に弱まっている。

東書、「流言が広がり」…デマを流した主語がない。

日文、「デマが住民や警察によって」

学び舎「流言が広められ、軍隊・警察や、住民がつくった自警団によっておびただしい数の朝鮮人が虐殺された。」

69 共産主義とファシズムの台頭   P.224225

【全体主義の広がり】

ヨーロッパでも、政策決定に時間のかかる議会政治や、経済的な不安や貧富の差を生む資本主義よりも、強い国家権力で経済を統制するソ連のようなやり方のほうが効率的ではないかという考え方が広がりました。そして、この考えが個人の権利や自由を制限してでも、国家や民族の目標を優先しようとする全体主義の動きにつながりました。

ファシズムは、共産主義によって生み出されたかのような記述となっている。

 

日文「資本主義国が恐慌に苦しむいっぽうで、ソ連が発展を続けたことは、やがて資本主義が没落し、社会主義の時代がくることを人びとに予感させました。そこに生活苦に対する不満や怒りが重なり、欧米諸国では、社会主義革命をめざす運動がはげしくなりました。」

70 中国の排日運動と満州事変   P.226227

【満州事変のおこり】

…排日運動の激化に対し、日本国内では日本軍による満州権益確保への期待が高まりました。

【建国1周年の満州国】(写真)

 建国に際しては、「五族協和」などの理想がかかげられた。

中国の排日運動が満州事変を引き起こしたかのような記述である。

「五族協和」を理想として肯定的に記述している。

軍部の当時の主張と同じ。

日文「国民政府は、日本が満州にもつ利権は、不当に期限がひきのばされたものだと批判しました。これに対し、日本の軍部や勢力拡大をめざす人などのなかには、満州を中国から切りはなして領有しようとする者が現れました。」

教出「「満州は日本の生命線である」として、武力を用いてでも日本の益権を守り、さらにそれを広げようとする首長が高まりました。」

帝国「長野県からみる「満州移民」」の特設ページ。

日文「日本人の海外移民」の特設ページ。

71 日中戦争(支那事変)   P.228229

【満州国の発展】

…(リットン)調査団は中国側の排日運動を批判し、日本の権益が侵害された事実を認めましたが、満州国を認めず、自治政府の設立を提案しました。…実質的に日本の支配下に置かれた満州国では、政治や経済の整備が進められ、日本の企業が進出して重工業が発展し、日本の多くの農民も開拓に入植しました。19世紀後半から増えた中国本土や朝鮮からの住民の流入は満州事変後も続き、人口も増加しつづけました

【側注】B 日本政府はこの戦争を「支那事変」とよんだ。

【側注】C このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている

中国の排日運動が満州事変を引き起こしたかのような記述である。

「開拓」は、実質、中国の人々から奪った地取に日本人農民を入植させたものである。

朝鮮からの人々の流入の原因が、朝鮮における土地取り上げだったことも記述していない。

「重工業の発展」、「人口も増加」と侵略の実態を描かない。

当時の軍部が「事変」と命名したのは、ハーグ陸戦協定を守る必要がないことをごまかすためであった。

南京大虐殺の実態は不明で「論争が続いている」として、南京事件そのものを曖昧なものにしている。本文に記述なし。

南京事件に関する記述は政府見解を書くようにとの影響で、記述が薄まっているが、他社は本文で取り上げている。

 

日文「12月に占領した首都南京では、捕虜のほか、女性や子供を含む多数の住民を殺害しました(南京事件)。…日本軍は、・・・重慶に爆撃を加え…」

東書「女性や子どもなど一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました(南京事件)。」

72 緊迫する日米関係   P.230231

【強まる戦時体制】 

… 大政翼賛会が発足しました。しかし、ドイツやイタリアの一党独裁とは異なり、帝国議会は制約を加えられながらも戦時中も停止されませんでした

日本はドイツやイタリアと違う、ファシズムではないと強調。大政翼賛会を美化している。

東書「文化や思想の統制がいっそいう強化され、自由主義的な思想や学問にも厳しい弾圧が加えられました。」

学び舎「治安維持法で取り締まられて裁判にかけられた人は1933年には1200人を超えました。」

73 第二次世界大戦   P.232233

【日米交渉の破たん】

アメリカは、イギリス、中国、オランダとともにわが国を経済的に圧迫し、封じ込めを強化しました。

【側注】@ 日本はこれを「ABCD包囲網」とよんだ。

アジア・太平洋戦争の原因が、米英中蘭による経済的圧迫であったと描こうとしている。

オランダや中国は侵略されていたる側であったことが欠落している。

 

東書、帝国など他社も「ABCD包囲網」を記述。

学び舎は包囲網を記述していない。「アメリカは日本に対する石油の輸出を禁止し、「日本軍は、中国とインドシナから撤退すべきだ」と外交交渉で要求しました。日本はこれを拒否して、米・英に宣戦布告したのです。」

 

 

 

74 太平洋戦争(大東亜戦争)   P.234235

【真珠湾攻撃】

…アメリカは、…強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました

米英に宣戦布告したわが国は、この戦争を「自存自衛」の戦争としたうえで、大東亜戦争と名づけました(戦後は太平洋戦争とよばれるようになりました)。

【側注】B 戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)が大東亜戦争の名称を禁止したので、太平洋戦争という用語が一般化した。

【太平洋戦争(大東亜戦争)の展開図】 (地図と年表)

D 43.5.29 アッツ島玉砕  F 44.7.7 サイパン島玉砕

開戦は、アメリカが原因だとしている。

「自存自衛」の戦争、「大東亜戦争」の呼称を肯定している。

当時の軍部は、作戦失敗による見殺しを「玉砕」とよんでごまかした。

 

日文「この戦争を当時の日本政府は、中国での戦いを含めて「大東亜戦争」とよびました。近年、アジア大陸と太平洋が主戦場だったことから、「アジア・太平洋戦争」よもよばれます。」(脚注)

 

「玉砕」という記述は他社教科書にはほとんど見られない。

【アジア独立への希望】

長く東南アジアを植民地として支配していた欧米諸国の軍隊は、開戦から半年で、ほとんどが日本軍によって破られました。この日本軍の勝利に、東南アジアやインドの人々に独立への希望を強くいだきました。 

【大東亜会議の開催】

1943(昭和8)年11月、東京で大東亜会議を開きました。会議には中国(南京政府)、タイ、満州国、フィリピン、ビルマ、インドの代表者が集まり、これらの地域を米英の支配から解放することなどをうたった大東亜共同宣言が採択されました。わが国の南方進出は石油資源の獲得をおもな目的としていましたが、この会議以降、欧米による植民地支配からアジアを解放し、大東亜共栄圏を建設することが、戦争の名目として、より明確に掲げられるようになりました。

日本軍を「アジア解放」の軍隊として描いている。

アジア・太平洋戦争が、植民地解放戦争であるかのように思わせる記述である。

 

日文「日本は、東南アジアの人々に、欧米の支配を脱し、日本の指導下で栄えようとする「大東亜共栄圏」をつくろうと宣伝しました。しかし日本軍は、きびしい命令を下して資源や食糧を取り立て、住民を戦争に協力させました。このため、住民の日本への期待はしだいに失われ、武力による抗日運動も行われるようになりました。」

 

76 戦時下のくらし   P.238239

【国家総動員体制】 

国民の多くはひたすら日本の勝利を願い励まし合って苦しい生活に耐え続けました。…日本の鉱山などに徴用され、きびしい労働を強いられる朝鮮人や中国人もいました。

【空襲の被害と沖縄戦】

爆撃は軍の施設や軍需工場だけでなく、国際法で禁じられている商業地、住宅地にも無差別に行われるようになり、民間人にもおびただしい被害をもたらしました

沖縄 …戦闘が激しくなる中で逃げ場を失い、集団自決する人もいました

当時のきびしい検閲や、言論・思想の取り締まり、「非国民」への迫害などが見えてこない。

現行の「連れてこられ」が「徴用され」に書き換えられた。

「強制連行」を連想させる言葉を変えたのか。

米軍の空襲については無差別性を問題にするが、日本軍の行った重慶爆撃や南京事件などは問題にしない。

集団自決をもたらした原因が日本軍の命令によるものだということを書いていない。

東書「植民地と占領地」という節を設け、詳述。

学び舎、朝鮮・台湾の人々についての徴用、連合軍の捕虜の強制労働にも言及。

東書、集団自決で日本軍の関与削除。

日文「日本軍によって「集団自決」に追い込まれたり、スパイと疑われて殺害された人もありました。」

学び舎「日本軍は、最後には玉砕を決意して、住民にも手榴弾を配りました。」他にもスパイ視虐殺やガマ追い出しなどの例をあげ、沖縄戦を詳述。

77 戦争の終結   P.240241

【日本の敗戦】

満州・北朝鮮にいた約200万の人々は、ソ連軍の攻撃や略奪にあい、多くの犠牲者を生みました。…第二次世界大戦全体の世界中の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人とも推定されています。

【御前会議での昭和天皇の発言】

私はどうなろうとも国民の命を助けたい

日本軍が民間人を見捨てたこと、そのために中国残留日本人孤児が生まれたことなどは記述しない。アジアの戦死者が約1000万だったことは記述しない。

731部隊の生体実験や三光作戦なども記述しない。

1945年2月、昭和天皇が近衛文麿の上奏を取り上げなかったこ

とには触れず、天皇を美化する記述になっている。

 

他社も引き揚げの問題や残留孤児やシベリア抑留など日本の犠牲を強調したもの少なくない。

学び舎「問い直される戦後」で、中国残留孤児や日本軍「慰安婦」をはじめとする戦争被害者の補償の問題を取り上げ、河野談話を記述している。日本軍「慰安婦」を記述しているのは学び舎だけ。

日文「日本政府は、最後まで降伏後の天皇制の存続の確認に勤めていましたが…」

【歴史ズームイン】 昭和20年、戦局の悪化と終戦   P.242243

【太田実中将の電文】 

「… 県民は青年・壮年の全部が防衛召集に応じてくれた。…県民ニ対シ後世、特別ノ高配ヲ賜ランコトヲ」と結んでいます。

【特攻隊員の思い】

 

現行の「応募してくれた」が誤りだと批判され、「応じてくれた」に書き換えた

軍隊への召集は強制的であり、「応募」はない

電報を取り上げるのであれば、牛島満第32軍司令官の、「最後の一兵まで戦え」というものを紹介すべきである。この命令が、沖縄県民の犠牲を大きくしたのである。

人間を兵器として扱った特攻隊について考えさせるのでなく、美化する内容になっている。

戦後の特設ページ。

東書は、原爆。

日文は、新渡戸稲造と杉原千畝、大阪の空襲。

教出は、後藤新平と杉原千畝

(現代)

78 占領下の日本と日本国憲法   P.254255

【戦後の民主化】

日本政府は、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍最高司令部(GHQ)の指令を受け、改革に取り組みました。民主化といわれる新しい制度づくりが始められ …他方、GHQは、日本が脅威とならないよう精神的なものも含めてわが国のあり方を変えようとしました過去の日本の歴史教育や政策は誤っていたという宣伝を日本側に行わせ占領政策や連合国を批判する批判を禁じました

【日本国憲法の制定】

GHQは、わが国に対し憲法の改正を要求しました。日本側は、大日本帝国憲法は近代立憲主義に基づいたものであり、部分的な修正で十分と考えました。しかし、GHQは日本側の改正案を拒否し、自ら全面的な改正案を作成すると、これを受け入れるよう日本側に強くせまりました。… 議会審議では、細かな点までGHQとの協議が必要であり、議員はGHQの意向に反対の声をあげることができず、ほとんど無修正のまま採択されました

日本国憲法の最大の特色は、交戦権の否認、戦力の不保持などを定めた、他国に例を見ない徹底した戦争放棄(平和主義)の考えでした。しかし、占領が終わり、わが国が独立国家として国際社会に責任ある立場に立つようになると、憲法改正や再軍備を主張する声があがりました。この問題については、現在もなお多くの議論が行われています

日本政府は民主化に取り組んだが、占領軍は弾圧したという描き方である。

「過去の日本の歴史教育や政策」は誤っていなかったという認識による記述である。

日本国憲法は、GHQによって押しつけられたものだとして描

いている。

「大日本帝国憲法の部分的な修正で十分」という立場からの記述である。

GHQの原案に日本人の学者たちの作成した憲法案が反映していること、国会審議を通じて「国民主権」を明記したこと、生存権を追加したことなどには触れない。

「他国に例を見ない」としているが、平和主義の条項は現在1

5か国以上に広がっている。

戦後改革を軽視。

民法改正の内容については、全く記述されていない。

東書、戦後の民主化と日本国憲法の制定で、3ページ

日文、国民生活を重視し、特設含めて7ページ。

日文「総司令部による改革とともに、民主化をめざす国民の運動がすすめられました。日本共産党が再建され、日本社会党や日本自由党なども結成されました。労働者は、生産の再開や賃金の引き上げを求めて、ろうどうくみあいをつくり、農村では、米の強制的な供出に反対するなど、農民運動が盛んになりました。」

日文「これまで神とされてきた天皇の「人間宣言」が出されました。」

他社は大日本帝国憲法と日本国憲法の比較表掲載。

東書「GHQの指示を受けて日本政府がはじめに作成した改正案は、大日本帝国憲法を手直ししたものにすぎませんでした。そこで、徹底した民主化をめざすGHQは、日本の民間団体の案も参考にしながら、自ら草案をまとめました。日本政府は,GHQの草案を受け入れ、それをもとにし改正案を作成しました。…また民法も改正され、個人の尊厳と男女の平等にもとづく新たな家族制度が定められました。」

日文、帝国、東諸、教出、学び舎は「あたらしい憲法のはなし」を紹介。

【歴史ズームイン】 東京裁判   

【戦犯として裁かれた人たち】 

裁判官はすべて戦勝国とその植民地から任命され、日本人の弁護団はわずかでした。裁判は、戦争指導にたずさわった政治家や軍人を、侵略戦争を行った「平和に対する罪」で裁こうとするものでした。弁護団は、この罪は新しく導入された考え方であり、過去の戦争にさかのぼらせて適用することは不当であると異議を申し立てましたが、却下されたまま裁判は始まりました。…インド代表のパール判事は、「復讐の欲望を満たすために、たんに法律的な手続きを踏んだにすぎないようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い」として、全被告を無罪とする意見を述べています。また、捕虜虐待などの戦争犯罪に問われた軍人なども、横浜やシンガポール、マニラなど各地の裁判所で裁かれ、1000人を超える人々が、十分な弁護を受けることもなく死刑に処せられました

【東京裁判についての見方】

…米ソなどの戦勝国に対しては、当時の国際法から見て戦争犯罪とされるものでも、

罪に問われることはありませんでした。 …そのほかに、東京裁判については、「平

和に対する罪」を過去にさかのぼって適用したことへの不当性を批判する意見があ

ります。…積極的に肯定する意見もあり、その評価は現在も定まっていません

東京裁判の意義を否定する立場からの記述である。  

日文「戦争をおしすすめた軍人や政治家の逮捕・裁判(極東国際軍事裁判)、職業軍人や国家主義者などの公職からの追放を進めました。」

「ポツダム宣言に基づいて連合国が開き、1948年に、戦争をおし進めた軍人や政治家25人全員(病死など3名を除く)に対して、有罪判決が下されました。」(脚注)

 

【人物クローズアップ 】国民とともに歩んだ昭和天皇   P.257

【戦争への苦悩、開戦の決断】

自分の考えと異なる政府の決定であっても、天皇はこれを認めることが原則となっていました。…日米関係で緊迫していった1941(昭和11)年9月の御前会議では、…平和を願う明治天皇の御製(天皇の和歌)を読み上げ、戦争よりも日米交渉の継続を重臣たちに示唆しました。しかし、結局、開戦を回避できず、苦渋の末に12月、「まことにやむを得ないものがある」などと記した宣戦の詔書(天皇の出す公文書)を発しました。

【敗戦と昭和天皇】

昭和201945)年…9月、天皇は連合国軍の最高司令官マッカーサーを訪問します。マッカーサーは天皇が命乞いに来たと思いました。ところが、天皇の言葉は、私の身はどうなろうと構わないから、国民を救ってほしいというものでした。

天皇はすべて政府・軍の指導者の言動や決定に従ったわけではない。

1945年2月の近衛文麿の講和を促す上奏は拒否した。この段階で戦争終結を決断していれば、東京大空襲・沖縄戦・原爆投下・ソ連参戦などによる悲劇を回避することができた。

「国民とともに歩んだ昭和天皇」として天皇を美化している。

天皇は、1947年に沖縄の占領継続を希望する意思を伝えた。1975年に戦争責任を問われた時、「言葉のアヤ」「文学方面」などとはぐらかしたこともある。

自由社以外の他の教科書には天皇をコラムでとりあげたところはない。

79 朝鮮戦争と日本の独立回復  P.258259

 【朝鮮戦争と日本の独立】

【側注】D インドネシアやベトナムの独立戦争では太平洋戦争(大東亜戦争)のために現地にいた日本軍将兵の中に、独立のために戦った者も少なくなかった

占領政策の転換について言及しない。

ここでも大東亜戦争はアジア解放の戦争であったと描こうとしている。

戦後の世界情勢の大変化を示すアジア・アフリカの独立国の世界地図なし。

 

東書「冷戦がはげしくなると、アメリカは、東側陣営に対抗するため、日本を西側陣営の強力な一員にしようと考えました。GHQの占領政策は、非軍事化や民主化よりも経済復興を重視する方向に転換され、労働運動の抑制や経済統制の撤廃などが行われました。…占領の長期化が反米感情を高めることをおそれたアメリカは、日本との講和を急ぎました。」

学び舎は講和会議が部分講和であった理由を記述し、講和会議に参加しなかった国の声を紹介。

80 冷戦と日本   P.260261

【安保闘争と経済発展】

1960(昭和35)年、首相の岸信介は日米安保条約を改定し、アメリカとの関係をより対等な立場にしようとしました。

原水爆禁止運動なし。ベトナム戦争の民衆の姿なし。安保闘争が起きた理由、衆議院での強行採決などについて述べていない。

 

日文「この条約には日本の自衛力の増強と、日米両国の軍事協力などが約束されていました。このため、改定案の調印と国会での承認採決をめぐって全国的な反対運動が起き、条約承認の採決を強行した岸内閣は、条約発効後に総辞職しました。」

日文は特設コラムで、久保山愛吉と原水爆禁止運動を紹介。

学び舎は原子力の平和利用博覧会について記述。

82 冷戦と昭和時代の終わり   P.264265

【アジア諸国との関係】  

わが国は1965(昭和40)年、韓国と日韓基本条約を結び、韓国政府を朝鮮半島にあるただ一つの合法的な政府として認めました。 …

戦後、沖縄はアメリカが施政権をもっていましたが、本土復帰をめざす沖縄の人々の長年の願いが実を結び、1972(昭和47)年5月、佐藤内閣によって沖縄本土復帰が実現しました

【昭和天皇の崩御】(写真)

北朝鮮はその後、国連に加盟しているということを踏まえず、敵視を煽る記述になっている。沖縄県民の祖国復帰運動や米軍基地問題には触れず、政府によって祖国復帰が実現したという記述になっている。

あえて、昭和天皇の弔問に集まる人々の写真を入れる必然性はないはず。

日文「ベトナム戦争の基地としての役割を果たしていた沖縄も、沖縄の人々の祖国復帰へのねばり強い運動と、本土での返還運動の高まりのなかで、1972年にようやく復帰を実現しました。…沖縄には広大なアメリカ軍の基地が残されたうえ、自衛隊も配備されることになって、住民の不安や不満は残されました。」

学び舎「基地の中の沖縄」で返還に関する密約を紹介し、「日米安全保障条約によって、沖縄の米軍基地はそのまま残され、新たに自衛隊が配備されました。…沖縄の基地はむしろ強化されていきました。」

84 地域紛争とグローバル化   P.270271

【地域紛争】

1991年に湾岸戦争がおこりました。イラクのクウェート侵攻に対し、国連決議

に基づくアメリカなどの多国籍軍が編成され、イラク軍を敗退させました。このとき、わが国は巨額の戦争費用を負担しましたが、憲法の規定を理由に人員を派遣しなかったため国際社会の評価は低く、国際貢献の在り方があらためて問われる結果となりました。このため、わが国は1992年以降、内戦が続くカンボジアに平和維持活動(PKO)として自衛隊を派遣するなど、自衛隊の海外派遣を行うようになりましたが、武力の行使は認められていません

日本の戦争参加を誘導する記述になっている。

 

 

日文「1992年初めて国連平和維持活動(PKO)に自衛隊員が参加しました。その後も、賛否両論のなかで自衛隊は、テロ対策としてインド洋に、人道復興支援対策としてイラクにも派遣され、紛争における人道貢献に応じるようになりました。又、核廃絶を実現するための努力を続けていくことも大切で、非核三原則を守ることを、政府は約束しています。」

学び舎はイラク戦争での自衛隊の活動を紹介し、「武装したアメリカ兵の輸送など、武力行使と一体となる活動は、憲法に違反すると、自衛隊派遣の差し止めと損害賠償を求める裁判が行われました。…」

85 日本の現状とこれから  P.272273

【世界のための日本の役割】

憲法や外交、防衛、教育など戦後の国のあり方をめぐる問題はつねに議論になり、仕組みの見直しも徐々に進んでいます

外交には、他国と協調する精神と同時に、わが国の立場や国益を守ろうとする姿勢が必要ですわが国固有の領土である北方領土(北海道)と竹島(島根県)は、それぞれロシアと韓国に不法占拠されたままです。わが国統治している尖閣諸島(沖縄県)の周辺海域には中国の監視船が侵入するなど、領土が脅かされています。中国をめぐっては軍事力の増強がアジア諸国の脅威となっています。北朝鮮の工作員に多くの日本人が拉致された事件(拉致事件)も解決されていません。

…わが国は、過去の歴史を通じて、国民が一体感をもち続け、勤勉で礼節を大事にしてきたため、さまざまな困難を克服し、世界でもめずらしい安全で豊かな国になりました世界の中の大国である日本は、これからもすぐれた国民性を発揮して国内の問題を解決するとともに、世界の人々から信頼され、世界中の人々が平和で幸せに暮らしていけるように国際貢献に努めていくことが求められています

憲法・防衛・教育などの「仕組みの見直し」を肯定的に記述している。

領土問題、軍事力増強など、軍事的緊張を煽っている。

自国を「世界の中の大国」と記述するなど「八紘一宇」の精神に通じるものがある。

憲法にもとづき、といった内容が全くない。

 

 

日文「1945年の敗戦の翌年、日本国憲法が公布され、日本は民主主義のもとに再出発しました。それから半世紀以上がすぎましたが、社会には今なお不合理や差別が残っています。世界では紛争や戦争が起きている国や地域があり、あらゆる地域がテロの脅威にさらされ、温暖化をはじめとする地球環境の破壊や食糧危機などの問題も深刻なものとなってきています。21世紀をむかえた今、こうした問題を解決し、日本はもとより世界のすべての人々が平等で平和な社会を築いていかなければなりません。

私たちは、日本国憲法のもと、一人一人が歴史をつくりあげる主人公であることを自覚し、国際社会に生きる日本人として歩んでいこうではありませんか。」

教出「日本は、第二次世界大戦を最後に、これまでどの国とも、直接には戦争をすることなく歩んできました。戦争被爆国としての経験や、非核三原則をふまえ、世界の核廃絶にむけて、リーダーシップを発揮していくことが期待されています。戦争の放棄を宣言した日本国憲法の精神にのっとり、世界の平和と、あらゆる国や地域の人びととの平等なつながりを求めて、以下にか王道するかが問われています。」